【展覧会】華道京展〜呵々と笑うの分析〜
行きつけのカフェでチケットを頂いたので
仕事帰りに大丸京都店で開催されている華道京展にお邪魔しました。
この展覧会は、華道発祥の地である京都の華道界の発展と市民文化への貢献を目的とした展覧会。
30を超える流派が出展し、会場には先生+お弟子+関係者が多くてすがすがしい雰囲気とは言いがたい会場でしたが、作品はご立派でした。
華道のことは全く知らない私が呵々と笑えた4、5点の作品について
なぜそのように感じたのか分析してみます。
①花卉の命を無駄にしていない(あるべきところに収まっている)
②作品の後ろに山林や庭の景色が広がる。
③意図が見える。
山林や野に生えている時以上の価値(力)があることが条件かもしれない。
生えているときの方が、生命力と空間を感じさせるのであれば、わざわざ手折る必要はない。
それをわざわざ手折るのだから、
その代償として制作者が手に入れたいものを明確に提示できなくてはいけない。
以下実例をあげて。。。。
①花卉の命を無駄にしていない
命ある花卉を手折ったことに対する責任を、場の中心として枝を活かすことで果たしている感じ。
(桑原専慶流)
②作品の後ろに山林や庭の景色が広がる。
水辺の菖蒲とその上に広がる桜の枝、回遊式庭園が凝縮されている感じ。(五明流)
3作品のならびの関連性は分かりませんが、
真ん中の桃とボタンは門から入ってすぐの庭を思い起こさせ、
右端のクレマチスの後ろには青竹の竹林が広がる初夏のような清々し景色が広がる感じ。
(桑原専慶流)
③意図が見える。
奇抜な器と少しグロテスクな紫の花。その上に風を巻き起こすような桜の枝。
春のうららかさの中でうごめいている、本来グロテスクで曖昧模糊な生命力の不気味さが
ただそこにある、奇をてらっていない形で提示されている感じ。(未生流笹岡)
写真で臨場感を写すことはとても難しい。。。。。